1人じゃできないことも、力を合わせればできる。3人の自転車旅行の思い出。
*このページの「現在」は、原則として2026年8月時点の情報です。Google mapから得た画像は2026年8月に公開されているものです。
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当時と現在の様子を比較できます。
たまたま見つけた1999年7月撮影の写真です。当時の栃木駅を斜め横から撮影したもので、奥には日記にも登場するロッテリアが写っています。当時の駅はまだ小さく、とても素朴な雰囲気でした。私は「栃木駅ってもっと大きな駅じゃないの?」と驚いたことを今でも覚えています。勝手に、立川駅よりずっと大きな駅だと思い込んでいたのです。
1994年に訪れた当時は落ち着いた木造駅舎でしたが、現在は一転してピンク一色。「いちごの聖地・鹿沼」をPRするため、2024年に駅全体がイチゴをモチーフに装飾されました。ずいぶん雰囲気が変わったなぁ。
鬼怒川温泉街から少し上流、「前鬼怒川」と呼ばれた静かな渓谷に佇んでいた、かご岩温泉。当初、僕らは鬼怒川温泉を目指して走り続けていましたが、疲れ果て、ヘロヘロになりながらようやく辿り着いたのが、このかご岩温泉でした。日帰り温泉には食事がとれる広い大広間があり、自転車旅の疲れを癒してくれた忘れられない場所です。
いつかもう一度訪れたいと思い続けていましたが、その願いが叶うことはなく、2022年1月、約70年の歴史に静かに幕を下ろしました。とても残念です。
往年の写真はかご岩温泉の公式HPの画像です。このHPを作り始めた時、いつか比較サイトを作りたいと考え、HPの画像を保管していたのです。
1994年撮影。かご岩温泉の休憩用大広間。露天風呂に入った後、大盛りのカレーを食べ、この施設の前でテントを張って休みました。
鬼怒川公園駅は、鬼怒川温泉駅の一つ手前にある静かな駅です。当時は、鬼怒川温泉に到着したつもりで撮っていたと思います。30年近く経って、外壁は新しく塗り替えられたようですが、建物自体は当時のままですね。
会津高田駅ですが、昔に比べるとずいぶん安っぽい駅になっちゃったなぁという印象です。旧駅舎は映画『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』のロケ地として使われたこともありました。現在の駅舎からは、寅さんが歩いてきそうな情景はなかなか想像できません。なお、現在の駅舎は2000年1月に建て替えられたものです。
若かりし頃の松居直美に起こされた寅さん。おしっこ漏れそうになってトイレに直行するシーンです。今の駅よりもずっと立派ですよね。
塔寺駅は1928年開業の只見線の無人駅です。「塔寺」という名は古い寺院に由来するとされ、地名の歴史を今に伝えています。特徴的なのは盛土の上に造られたホームで、只見線では豪雨や増水に備えて線路を高く保つ区間が多く、この駅もその一例です。近くには立木観音で知られる恵隆寺があり、かつて門前町として栄えていたそうです。
当時の僕らは、この駅前の広場(?)にテントを張り、蚊との格闘と蒸し暑さに悩まされながら、寝苦しい夜を過ごしました。あれは……もう二度と体験したくない思い出です。
2003年の野沢駅です。もう少し古い、僕らが旅した頃の写真が欲しかったのですが、ネットで検索して見つかった一番古い写真がこれでした。今の駅舎は1974年に建てられたものから変わっていないので、当時、僕らが旅した時も同じ駅舎だったのでしょう。正直、野沢駅やその周辺の様子に関して全く覚えていません。私にとっての野沢駅は、初めて輪行袋に自転車を収納し、電車に乗った駅という思い出がすべてです。野沢駅は1991年7月から無人駅になったそうなので、きっと僕らも無人改札を通ってホームに向かったのだと思います。
2003年の村上駅です。申し訳ないのですが、野沢駅同様、この駅のこともほとんど覚えていません。当時、写真を撮っていれば、もう少し記憶に残っていたのにと思うと、とても残念です。村上駅は2005年6月に駅舎の外観がリニューアルされたそうです。
当時は、野沢駅から新潟駅で乗り換え、ここ村上駅で下車しました。予定では海水浴を楽しむ予定でしたが、自転車の組み立てに思いのほか時間がかかり、海水浴はお預けに。自転車を組み立て終えると、温泉とコインランドリーを求めて村上温泉へ向かいました。
村上温泉の瀬波ビューホテル。当時の写真が無かったため、どちらもネットから入手したものです。「なら1枚で良いのでは?」というツッコミが聞こえてきそうですが、実は理由があります。
私のこのホテルの記憶は、2017年の写真の方がしっくりくるのです。というのも、僕らが風呂に入っている間、親切な従業員の方が衣服を洗濯してくれたのですが、その受け渡しをしたのが、この写真に写る裏手側だったような気がするのです。しかも時間が遅く、辺りは薄暗かった記憶があります。
しかし! 我らが「親切大賞」を贈呈した瀬波ビューホテルです。やっぱり、きれいな写真も載せたいじゃありませんか!ということで、青空の下に建つ現在の写真も加えてみました。
え?昔と今の比較になっていないですって? 良いのです!昔の姿は僕らの心の中に残っているのですから!(たぶん)
それにしても、30年以上経った今も変わらず営業を続けてくれていて、本当に嬉しいです。
あつみ温泉は約1200年前、一羽の傷ついた鶴が湯で傷を癒したことから始まったという伝説が残る温泉地です。駅舎はご覧のとおり、1994年当時とほとんど変わっていません。ちなみに、あつみ温泉駅は私の好きなテレビ東京『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』で何度も登場した駅でもあります。テレビでこの駅が映るたびに、自転車で訪れた当時の旅を懐かしく思い出していました。
早朝、村上温泉を出発し、夜を徹して走り続け、ようやくたどり着いた先がここ、はまなす温泉でした。心身ともにヘロヘロだった僕らは、朝7時から温泉に入り、その後は休憩室で爆睡したのを覚えています。お世話になったこの温泉が今も営業を続けていてくれることが、本当に嬉しいです。
そういえば、深夜走行で思い出すことが二つあります。
一つは、田舎道は街灯が少なく、夜間走行が想像以上に危険だったことです。私の自転車にはキャッツアイ(赤い点滅ライト)を付けていたため、自然と一番後ろを走ることが多く、結構スリルがありました。
もう一つは、デコトラのありがたさを知ったことです。それまでは、「なんであんなに無駄に電飾を付けているのだろう?」と思っていました。しかし、真っ暗な田舎道では電飾のないトラックは運転席とテールランプしか見えず、車体の長さや位置が本当に分かりづらいのです。その点、デコトラは車体全体の輪郭がはっきり分かるため、とても安心感がありました。まさかデコトラのありがたみを身をもって知ることになるとは思いませんでしたが、これも夜通し走ったからこその貴重な経験です。
ちなみに、はまなす温泉の写真はネットから入手したものです。初回の旅行は写真の大切さを理解しておらず、他の自転車旅行に比べ写真をあまり撮っていないのです。
ラッキーなことに、1990年代の秋田駅の写真を見つけることができました。
1990年代の秋田駅は、屋上に広告看板が並ぶ独特の駅でした。これは国鉄が駅舎を広告収益に使っていた時代の名残で、地方駅としては異例の光景でした。現在の秋田駅は、秋田新幹線の開業に合わせて1997年3月16日に使用を開始した橋上駅舎です。その最大の特徴は、新幹線が来ても地上駅のままだったことです。普通の新幹線は車体が大きく、床の位置も高いため、在来線のホームでは乗り降りできず、駅を高架化したり大改造したりする必要があります。しかし秋田新幹線は“在来線と同じ高さのホームに停まれる特別仕様”。そのため、秋田駅は大工事なしで新幹線を迎えられた、全国でも珍しい駅なのです。
秋田駅は夜に到着し、朝一番の電車で出発したため、実は駅前の記憶はほとんどありません。しかし!僕らの旅の中でも屈指の、人情あふれるエピソードが誕生したのもこの秋田駅なのです!
この写真を見つけた時には感動しました。なぜなら、この旅一番の人情あふれるエピソードが生まれるきっかけとなったミスタードーナツの店舗(黄色とオレンジ)が、写真の右端にうっすらと写っているのです!
秋田駅といえば、ヤンキーっぽい兄ちゃんの思い出、閉店間際の焼肉屋の思い出、そして東西連絡通路での野宿の思い出。わずかな滞在時間にもかかわらず、数々の思い出が生まれた、まさに奇跡の地なのです!
ヤンキーっぽい兄ちゃんと焼肉屋の話は日記を読んでいただくとして、ここでは日記には書かれていなかった、連絡通路での野宿の思い出を紹介したいと思います。
1994年7月29日の夜、僕ら三人は秋田駅の西口と東口を結ぶ長い連絡通路のベンチで一夜を明かそうとしていました。ベンチには私と野々垣が並んで座り、隠田は少し離れた場所を陣取っていました。ところが、眠り始めて間もなく、私と野々垣は駅員に起こされます。「こんなところで寝ちゃだめだよ」といった感じで注意されたのですが、厳しく追い払われることはなく、そのまま再び眠りにつきました。
そして翌朝の会話。
隠田「ねぇ、昨日の夜、なんか言われてたけど何だったの?」
皆野「駅員に、ここで寝ちゃだめって言われたんだよ」
隠田「あ、そうなんだ。俺、てっきりヤクザに絡まれたのかと思ったよ。だから寝たふりして様子を見てた」
皆野「お前、寝たふりしないで助けに来いよ!」
隠田「いや、二人が連れて行かれたら警察に行こうと思って」
皆野「・・・」
さすが隠田だと言っておこう・・・
1999年の青森駅です。1992年の写真も見つけたのですが、駅屋上の看板が同じでしたので、当時僕らが降り立った時とこの写真にそんなに違いが無いかと思います。
青森駅の思い出は、日記に書いてあること以外では、映画館の印象が大きいです。当時も東京の映画館では1本立てが当たり前だったのに、青森では2本立てだったか、3本立てだったかで上映していて、とにかくお得だなぁと思った記憶があります。
僕らが利用した旧駅舎は、2021年に橋上駅舎へと生まれ変わり、2024年には旧駅舎の跡地に写真にある「JR青森駅東口ビル」が建てられました。
青函連絡船と列車が乗り継いだ頃の函館駅は、三角屋根の駅舎と大時計が旅人を迎える「北海道の玄関口」でした。1953年に設置された大時計は約50年間その時を刻み、役目を終えた今も札幌市の「北海道開拓の村」で大切に保存されています。2003年に建て替えられた現在の5代目駅舎は、デンマーク国鉄との共同デザインによるガラス張りの開放的な建物で、中央にそびえるロトンダ(円形の塔)が象徴的。昭和の温もりと北欧デザインが息づく現代性――30年の時を隔てた2枚の写真には、函館駅が歩んできた歴史そのものが映し出されています。
比較に使用した写真は偶然、僕らが旅した1994年7月に撮影されたものです。僕らの写真は夜に撮ったものですが、比較写真にも同じ看板が写っているのが分かるでしょ? 函館駅到着日の夜に、駅の待合所で一夜を明かしたのが懐かしい。
1994年の札幌駅南口。駅前広場では「牧歌の像」が旅人の待ち合わせ場所として親しまれ、その先には屋上広告が並ぶ横長の駅舎が北海道の玄関口らしい風景をつくっていました。2003年、駅はJRタワーを中心とした現在の姿へと大きく生まれ変わります。駅前の景色は一変しましたが、「牧歌の像」は現在も西コンコースへ移設され、当時と変わらぬ姿を見ることができます。それにしても、僕らの格好を見ると、新しい駅舎よりも昔の駅舎の方が、悲しいほどしっくりくるよね。
旭川駅は、1960年に建てられた3代目駅舎から建て替えられ、2010年10月に現在の高架駅が一次開業しました。その後も工事が続けられ、2011年11月に4代目駅舎が全面開業しました。
旭川駅は全国でも珍しく、川の前に建てられた駅です。駅はふつう、氾濫の危険や橋の建設費を避けるため川沿いには造られません。しかし旭川は川運で栄え、街の中心が忠別川のそばに発展したため、鉄道を敷く頃には駅を置ける広い土地が川沿いしか残っていませんでした。
旧駅では川の手前に線路が広がり、街と川が分断されていました。そこで駅の建て替えに合わせて鉄道を高架化し、この分断を解消。全国でも珍しい「街側と川側の二つの玄関を持つ駅前広場」が整備されました。駅舎がこれほど大きいのも、この二面性を持つ構造だからです。
ただそれでも、1日の平均乗車人員がせいぜい約4,000人ほどの駅なのに、この巨大な駅舎・・・。
誤解を恐れずに言わせてください!税金の無駄遣いじゃないの?(旭川駅の建設費の大部分は税金で賄われたそうです。)
1995年の稚内駅。レンガ調の駅舎は、日本最北端の駅として北海道一周や宗谷岬を目指す旅人を迎え、旅の始まりと終わりを見守っていました。老朽化に伴う駅前再開発により、2011年には道の駅と一体化した現在の駅舎へと生まれ変わります。実はこの建て替えで駅構内も大きく姿を変え、ホームの先へ続いていた線路は短縮されました。現在、その一部は「日本最北端の線路」として保存され、終点の車止めが旅のゴールを静かに物語っています。最北の駅ならではの風景は変わりましたが、「ここが日本の北の果て」という旅情は、今も変わらず受け継がれています。
1994年に撮影した稚内駅の写真です。比較に使った旧駅舎の写真は1995年3月撮影とのことで、僕らの写真はその約7か月前のものになります。つまり、ほとんど同じ時期の駅舎風景というわけです。
そして、僕らが稚内に到着した8月6日は、ちょうど稚内市最大級の夏祭り「稚内みなと南極まつり」の初日でした。今ならネットですぐに調べられますが、当時は何の祭りなのか分からないまま、ただその賑わいを眺めていました。
稚内市の最西端、宗谷海峡へと突き出したノシャップ岬。「ノシャップ」とはアイヌ語で「岬が顎のように突き出たところ」あるいは「波が砕ける場所」という2つの意味を持つと伝えられています。
よく見ると立札の「ヤ」の字が小さくなっています。周りの景観も変わり30年の月日が経っていることを感じます。
宗谷岬のシンボル「日本最北端の地の碑」は1978年に建立されました。三角形のモニュメントは北極星の一稜を表し、その中央には北方を示す「N」をかたどったブロンズ像が飾られています。
30年経っても変わらぬその姿にほっとします。
駅舎は1989年、弟子屈駅から摩周駅へ改称された際に建て替えられたもので、三角屋根が印象的なデザイン。30年が過ぎても当時の雰囲気を色濃く残しており、変わらない安心感を覚えます。
1919年に開業した根室駅は、2025年、東根室駅の廃止に伴い、64年ぶりに「日本最東端の駅」となりました。駅舎自体は1994年当時とほとんど変わっていませんが、駅名看板の色や駅前の時計など、細かなところに30年という時の流れを感じさせます。
ノサップ岬は日本本土最東端の岬で、日本で最も早く朝日を望める場所の一つです。沖合約3.7kmには北方領土の貝殻島に立つ灯台を望むことができます。
この碑に至るまでの間、いくつも「返せ北方領土」の看板を見たのを覚えています。
厚床駅は1919年に開業した、かつて標津線との分岐駅として栄えた駅です。標津線は1989年に廃止されましたが、駅舎は1990年に現在の三角屋根が印象的な姿へ建て替えられました。実は僕らが訪れた時、まだ比較的新しい駅だったんですね。駅の正面左側がガラスになっていますが、それ以外はほとんど変わっていないようです。
厚岸駅は1917年に開業し、現在の駅舎は1979年に建てられたものです。1994年に訪れた当時と建物自体は変わっていませんが、駅名の文字は赤から緑へと微妙にイメチェンしています。厚岸といえば名物は牡蠣。僕らも「富多波(ふたば)」で牡蠣フライを堪能しました。美味しいうえにボリューム満点で最高の名店でしたが、残念ながら現在は閉店してしまったそうです。
現在の釧路駅舎は1961年に完成したもので、今でも1994年当時とほとんど変わっていません。一方で、駅周辺では高架化計画が進められており、長年親しまれてきたこの駅舎も将来は大きく姿を変える可能性があります。今の風景は、いずれ貴重な記録になるかもしれません。
北海道白糠郡浦幌町字直別(国道38号沿い)にあった、ライダーハウス「ミッキーハウス」は、ドライブイン併設の有名なライダーハウスだったようです。
僕らの日記には、次のように記されています。
「順調に浦幌のジンギスカン屋を目指し進んでいたら、何と8:00すぎにジンギスカン屋「ミッキーハウス」に到着してしまった。(中略)早速僕らは店に入り、昨夜釧路のコインランドリーで出会った2人組みのバイク乗りの兄ちゃん推薦のジンギスカン定食(1人前+ご飯もう一杯)+鹿のロース焼肉(2/3人前)を食した。さすがに、量、味共に抜群で腹もいっぱいになった。」
残念ながら現在は閉館・廃業しています。なお、写真はネットから入手したものです。
晩成温泉は、ヨウ素を豊富に含む全国でも珍しい「ヨード泉」と、十勝地方で唯一、太平洋を眺めながら入浴できる温泉として知られています。
僕らの旅で唯一、宿に宿泊した貴重な施設。泊まった部屋は2階だったと思う。まだ変わらぬ姿で残っていて嬉しいです。
静内駅は1926年に開業し、長く日高地方の中心駅として親しまれてきました。2001年には駅舎が建て替えられ、バスターミナルを備えた地域の交通拠点として生まれ変わります。しかし2015年の高波被害をきっかけに日高本線は長期不通となり、2021年には鵡川~様似間が廃止されました。それでも駅舎は取り壊されることなく、現在もバスターミナルや観光案内所として利用されています。鉄道は姿を消しましたが、「駅」としての役割は今もこの場所に残り続けているのです。
鵡川駅の現在の駅舎は1990年に建てられたもので、1994年に訪れた当時とほとんど変わっていません。静内駅で紹介した通り、鵡川駅はかつて日高本線の終点ではなく、様似駅まで続く長い路線の途中駅でした。しかし2015年の高波被害で鵡川~様似間が不通となり、2021年に廃止。今では、かつて海岸線を走っていた日高本線の終着駅となっています。
たいてい今の駅は、新しく建て替えられたか、色を塗り替えられたか、それとも経年劣化したかのどれかです。でも、ここ苫小牧駅は一言で言うと「退化」。当時と比べるとずいぶんみすぼらしくなってしまったという、僕がこれまで訪ねてきた駅の中でも珍しいタイプです。
僕らが訪れた当時は、写真を撮っているカメラマン側に大型ショッピングセンターがあり、駅とは空中回廊でつながっていました。写真の通り、駅の中にも店が入っているのが見えますし、駅前全体に活気がありました。
ところが今は、そのショッピングセンターが経営不振で閉店して以来、10年以上も取り壊されないまま廃墟の状態。空中回廊もなくなり、駅前なのにまるでゴーストタウンのようになってしまったとか。つまり、僕らが訪れた頃は、まだ苫小牧が元気だった時代だったんですね。
とはいえ、ようやくビルの撤去が決まり、駅前も再開発に向けて動き始めたようです。数年後には、きっと今とはまったく違う景色になっているのではないでしょうか。
ネットで調べると、現在のフェリーターミナルは1975年(昭和50年)から使用されているそうです。その後、何度か改修や設備更新は行われていますが、建物そのものを全面建て替えたという記録はありません。ですから、僕らが旅した当時と比べても、大きくは変わっていないと思います。……と言っても、肝心の建物の記憶がほとんど無いのですが。
当時、僕らはブルーハイウェイライン(現・商船三井さんふらわあ)の「さんふらわあ さっぽろ」で東京へ帰りました。調べてみると、苫小牧港~東京港の航路は1972年から1997年まで運航されていたようで、現在は苫小牧から東京へ直接行くフェリーはありません。詳しくはこちらをご覧ください。
ちなみに、僕らが乗船した「さんふらわあ さっぽろ」という名前の船は、現在も就航しています。ただし、1994年に乗船した船とは別の船です。現在の「さんふらわあ さっぽろ」は3代目で、2017年10月に就航しました。一方、僕らが乗船したのは初代「さんふらわあ さっぽろ」です。この船は1974年に「さっぽろ丸」として就航し、1991年に「さんふらわあ さっぽろ」へ改称されました。その後、1997年に大阪~志布志航路へ転配され、翌1998年に引退したそうです。
1994年の栃木駅と、現在の栃木駅。かつて親しまれた木造駅舎は高架化によって役目を終えましたが、解体されることなく移設・保存されています。年月を重ねて落ち着いた赤茶色となった瓦屋根も、旧駅舎の面影を伝えるものの一つです。東武線は2000年、JR線は2003年に高架化され、栃木駅は両社が乗り入れる便利な駅へと生まれ変わりました。現在の駅舎に設けられた三角屋根には、かつての木造駅舎へのささやかなオマージュが込められています。